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青年期の故郷 山形を訪問(4月29日)
高畠駅から高畠町 糠野目駅へ歩く

① 最上川最終船着き場跡の案内板
=24/04/29、高畠町糠野目
・宮町
② 屋代小学校=2024/04/29、高畠町深沼・深上
 
③ 屋代郵便局。左方からの坂道が旧屋代橋への取り付け道=2024/04/29、高畠町深沼・中才
④ 義民の高梨利左衛門を祀るお地蔵さん
=2024/04/29、高畠町亀岡・三の分かれ
 
⑤ 和田小学校=24/04/29、高畠町中和田  
⑥ 疎開先で住んで居た家。右側の1部に住んで居た=2024/04/29、高畠町上和田・立田
⑦ 旧和田村上和田分校跡
=2024/04/29、高畠町上和田・細谷
 ● 最上川の船着き場の最上流が、JR高畠駅近くにあったことを最近知り、興味が湧きました。
 高畠駅西口を7時半に出て、国道13号線を米沢方面へ1.4㎞ほど歩くと「糠野目橋」があり、渡った左岸の約100m下流に「最上川最終船着場跡」の標識と案内板がありました(写真①)。国道13号線旧道の位置で、昔の木造橋はありません。下流には、黒井堰樋橋(現鉄管橋)があり、右岸の周辺は緑地公園になっていました。
 最終船着場と長井の「宮舟場」間は、米30から50俵(3㌧)積める小型の小鵜飼船が行き交いました。
 水運は、江戸後期から明治の奥羽本線開通まで続き、米沢市中心部への街道が、大変賑わったそうです。
 案内板の下流近くに酒田の河口まで、198.5mと書いたた国土交通省の標識がありました。川沿いを長井迄歩くのもおもしろいと思いました。
 ● 高畠駅に戻り、旧屋代村の一本柳を目指しました。昔は、高畠駅(旧糠野目駅)から二井宿駅間を、山形交通の高畠鉄道がありました。廃線跡が「まほろばの緑道」に整備され、人や自転車が通れます。高校1年のとき、米沢への通学電車で乗った思い出の路線です。その道を進み、途中から川沼、一本柳、深沼へと歩いて同級生宅を記した「古地図」を頼りに見て回りました。建て替えや更地になり、的を得ませんでした。それでも面影があり、何人かの家や跡地が分かりました。母校の屋代小・中学校に着くと、中学校は廃校になっていました(写真②)。周囲に家が建ち、様がわりです。校庭に入っても記憶物はないだろうと思って寄らず、通学路だった屋代川に架かる屋代橋を渡りました。その直ぐ下流に、旧橋の取り付け道が残っておりホッとしました。橋を渡ったところに郵便局が見えました。
 ● 屋代郵便局前(写真③)。でストップウオッチを押し(11時5分)、旧の高畠町、亀岡村、和田村、終点のJR置賜駅(旧窪田村)迄の行程です。このコースに決めたのは、小学生のときに母が恋しくなり、預けられていた父の生家(屋代村深沼・大新)から母が住んでいた和田村迄、バスに乗るお金15円が無く、3里(12㎞)の道を歩いたことです。歩き出すと、屋代川の拡幅工事や車社会が反映し、当時の道が分かり難い上、目印だった商店もなくなっていました。それでも、数件の同級生宅が分かりました。屋代川に架かる鴨落橋を渡って高畠町の中心街に入ると、見覚えの商店などが見当たらず、新たな店もなく静寂で唖然としました。家族経営で成り立ってきた農業を、基幹産業から外し輸入を主にした結果です。バスも廃止になり、地図上で旧道を思い起こし、なんとか亀岡文殊に着きました。
 ● 亀岡文殊(日本3大文殊の1つ)入り口の手前の道ばたに、屋代郷(現高畠町他)の「英雄」高梨利右衛門を弔う地蔵堂があり、手を合わせました(写真④)。
 利右衛門は、二井宿村の名主です。屋代郷は徳川幕府の直轄地(天領)でしたが、減封に苦しむ上杉藩(米沢藩)が幕府に頼み込み、上杉藩の領地に入れ、過酷な重税の取り立て餓死者も出ました。利左衛門は窮状を幕府に直訴し、訴の罪で処刑されました。その後、過酷な取り立てが幕府に知れ、天領に戻りました。郷民は喜び、利左衛門を義民と親しみ続けています。亀岡文殊にも、利伊左衛門を弔った墓石があり、墓石の正面に「波阿弥陀仏」の文字が、左側面に「極重悪非人無他方便」の文字が刻まれてありました。破壊されないよう、カモフラジューした領民の知恵です。他にも、碑や地蔵尊の姿で残ってあります。米沢藩に残る記録には、罪状の記述だけだそうです。
 ● 亀岡文殊前後の旧道は、平場に張り出した峰の一部を開削した坂道が残っていました。直ぐ思い出し、振り返りながら歩きました。車道は、坂道から外れた平場を通っていました。機が早まり、上和田へ向かう左折点が近いと思ったが、ガソリンスタンドで聞きますと、まだまだで1㎞余り先でした。砂川に架かる折石橋の銘板を確認し、橋の手前にバス停「折石」があった雰囲気が残ってありました。ここからは、何度も歩いたことがありましたが、歩く景色に記憶が重なりません。間もなく和田村の小・中学校に着きました(写真⑤)。小学3年生のときに学んだ本校です。小学校と中学校の間にあった大きなトチノ木を探したが、見つかりません。中学校は既に廃校で、屋代中学校と同様です。
 ● いよいよ最目的の上和田です。道路は舗装され、昔の道か新しい道かの判断がつきません。曲がった道は、直線的にしたようです。聞くにも、人影がありません。どうにか目標の上和田の集落立田(りゅうでん)に着きました。そこの一軒が、それまで住んで居た疎開先の米沢市から、1946年に移転した所です(写真⑥)。
 そこは、父の次兄が養子入りした農家です。当初は母屋の1部屋を仮住まいでしたが、母子5人は大勢なことから、入り口脇の小屋の1部に1部屋つくり、下屋が玄関と炊事場でした。今は、茅葺屋根からトタンに替わっていました。その住まいで、私が4年生で姉が6年生になるとき、2人は母と別れて父の実家に預けられるまで過ごしました。そして、残った母と子2人の3人は、となり集落の細谷、豊後屋敷、金谷へと転々としました。その3か所も訪ねると、更地や別の家が建っていました。
 ● その後、細谷にあった上和田分校跡(写真⑦)を見ました。門柱に「高畠町立和田小学校 上和田分校」の文字が残ってありました。現在は高畠町上和田交流館となっています。その分校に、私は1947年(昭22年)に入学しました。1、2年生が同じ教室で、机を縦半分に分けていました。隣の部屋は講堂(体育館)でした。先生が2人おり、2年生に教えるときは1年生は書き取り(自習)でした。2年生のかけ算九九の勉強に興味があり、耳を傾けた記憶が残っています。また、休憩などで体育館を走り回ったことを思い出します。3年生になると、先ほどふれた本校に通いました。
 夕闇が迫り、急ぎ足で糠野目駅へ向かいました。
 この道も最寄りの鉄道駅で「まだか・まだか」と歩いた道です。駅に着いたのは、陽が沈んだ7時25分でした。住んで居た集落から約7㎞です。今日の全行程は、12時間と33㎞でした。 

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